キリスト者、教会の在り方が問われている震災後の我が国で、信仰共同体の命である礼拝から、自らを見つめ直したいとの祈りの内に、記念番組シリーズをお届け致します。
第一回目は典礼学の視点から、キリスト教二千年の歴史の中での礼拝の本質を、上智大学の具神父様に伺います。礼拝とは何か、教会は何故礼拝を続けるのか、この国で今、主イエスの福音を分かち合う意味を、ご一緒に考えて参りたいと願います。
第一回目は典礼学の視点から、キリスト教二千年の歴史の中での礼拝の本質を、上智大学の具神父様に伺います。礼拝とは何か、教会は何故礼拝を続けるのか、この国で今、主イエスの福音を分かち合う意味を、ご一緒に考えて参りたいと願います。
―キリスト教会は二千年以上に渡り絶えず礼拝を守ってきたわけですが、そもそも礼拝とは一体何か、これまでの歴史も踏まえてお聞かせ頂けますか。
▼「礼拝」という言葉を一番簡単に説明しますと、「キリスト者たちの祈り」だと思うのです。一人での祈りではなく、同じ神を信じている共同体が、神に向かって賛美と感謝を捧げる「祈り」だと思います。七十年代頃に書かれた使徒言行録を見ると、初期キリスト者たちがなぜ礼拝をし始めたかということがよく分かります。やはり礼拝の出発点、原体験というものは、イエス・キリストの復活の体験だと思うのです。
―復活を体験することが礼拝の原点なのですね。
▼そうです。それはただの復活ではなく、厳密に言えば「聖なる三日間」と呼ばれる出来事ですね。
―「聖なる三日間」とは?
▼イエス様が弟子たちとエルサレムで最後の食事をされて、その晩ゲッセマネでお祈りをされて、そして捕まって拷問されて、今の計算だと木曜日の夜から金曜日の朝になるんですけど、イエス様が死刑宣告を受けてゴルゴタで十字架に架けられます。それが午前九時で、午後三時頃にイエス様は亡くなられるんですね。その後に葬られて金曜日が終わって、そして土曜日の安息日の次の日に、女性たちが墓に向かいます。
そこからイエス様の新しい命を弟子たちが経験することになるのですが、その三日間で起こった出来事。受難と死を通って現れた新しい命としての、この復活の体験をした弟子たちは、「自分が神様に赦される存在、神様に愛される存在である」ということを体験したのです。
つまり復活されたイエス様がペトロに「お前は何で私が亡くなる前に私のことを知らないと言ったのか」とはおっしゃらないで、赦しや平和、そして「あなたたちが今私から受けたメッセージを人々に伝えなさい」と。そこで弟子たちは平和と喜びを持って世に向かうことになります。
そのような三日間の悲しみと喜びといったものを神様の恵みとして経験した弟子たちが、この神様がどういう方であるかということを自分たちが深め、そして宣べ伝える源泉として、この祈りを共同で行ったということが礼拝の出発点じゃないかと思われます。